福井アドバイザーの 海外ビジネスコラム

第21回 ミャンマーのクーデターについて<第三信>

(公財)富山県新世紀産業機構 アジア経済交流センター
海外ビジネスアドバイザー 福井 孝敏

 1948年に議会制民主主義・市場経済を旨とする「ビルマ連邦共和国」として英国から独立を果たしたミャンマーは、1962年のネ・ウィン国軍最高司令官によるクーデターによって始まった軍政によって「ビルマ式社会主義」となり、企業の国有化や外国との貿易・投資・金融の制限等が実施され、その後26年の間、経済的な鎖国に近い状況が続いた。その結果、経済活動が行き詰まり、1988年に反政府暴動が激化、これを鎮圧した軍部は社会主義の放棄を宣言、再び市場経済に復帰した。しかし、1990年の総選挙で敗れた軍事政権側が、選挙で圧勝したアウンサンスーチー氏率いるNLD(国民民主連盟)への政権移譲を拒否した事でミャンマーは欧米諸国からの経済制裁を受け、外国企業のミャンマーブームは委縮し、ミャンマーが貿易・投資・金融の世界から締め出された状況が2011年まで続いた。1990年の総選挙で大敗した軍部は、民政移管には憲法制定が必要として、新憲法制定までは政権移譲は出来ないとの姿勢を取っていたが、2008年に新憲法が国民投票で承認されて、2010年11月に新憲法の下で総選挙が実施された(NLDはスーチー氏が投票から排除された事により、この選挙のボイコットを決め、選挙前の2010年5月に解党した)。結果は軍部が組織したUSDP(連邦発展団結党)の圧勝となり、翌2011年3月に文民政権(大統領は軍部出身のテインセイン氏)が成立した。
 就任したテインセイン大統領は、大方の予想を大きく裏切り、大胆な政治的民主化や経済改革を進めた。最大の改革はアウンサンスーチー氏との対話を行い、その結果、彼女が率いるNLDは2011年11月に政党再登録を行い、翌2012年4月の議会補欠選挙でスーチー氏自身の当選を含み、議会に復帰する事になった。加えて、少数民族武装勢力との和解(停戦協定の締結)、「平和デモ集会法」、「労働団体法」等の制定、海外亡命したミャンマー人への帰国呼びかけ、メディア規制の大幅緩和(事前検閲の廃止)、外国投資法改正、携帯電話自由化、為替変動相場制の導入、スーチー氏と近い学者の政府経済顧問への任命等等。
この間に全ての政治犯の釈放やクリントン米国務長官の訪緬(2011年12月)、オバマ米大統領の訪緬(2012年11月)等もあり、欧米諸国の経済制裁措置の大幅緩和・解除が実現し、海外からのミャンマー投資ブームが沸き起こった。
図表1~3参照。(出所:堀江 正人(2020)三菱UFJリサーチ&コンサルティング経済レポート『ミャンマー経済の現状と今後の展望』より転載)

ミャンマーの主な政治動向

文民政権発足以降のミャンマー政府の経済改革

外国からミャンマーへの直接投資認可額

 このように2011年の民政移管後、「アジアのラストフロンティア」として世界の注目を集め、大きく変貌を遂げてきたミャンマーだが、この間に、2015年及び2020年に2回の総選挙を実施し、両回ともNLDが圧勝し、政治的安定の下に更なる発展が期待されていた。 

 そこに突如起こったのが2021年2月1日の軍部によるクーデターでの政権転覆・奪取であった。一体、なぜこのような事態に至ったのか?
一言で言うならば、「軍部の、軍部による、軍部の為の」権力奪取だったと言えるのではないか。それは、2010年3月27日の軍政下に於ける最後の「国軍の日」に当時の「国家平和発展協議会(SPDC)」のタンシュエ議長(国家元首)が述べた「我々(軍)は国や人々の命を守るだけでなく、必要とあればいつでも国政に関わる」「民主化の誤った進め方は無秩序を招く」「今年(2010年)の選挙は民主化の始まりだけではなく、選挙に参加する政党は民主主義が成熟するまで自制と節度を示すべき」等の発言にある如く、「国家の運営・統治を担う大黒柱としての軍部」と言う確信、信念である。
ミャンマーは8つの部族と135の少数民族から成る国であり、そうした国家の独立、統治を可能にする芯の組織は軍部であるとの自負がある。
 2020年11月に行われた総選挙は結果としては、NLDの前回を上回る圧勝となったが、選挙前にはさまざまな出来事があった。例えば、2党が選挙のボイコット(選挙管理委員会による政策の事前検閲が理由)、ラカイン州、シャン州での投票中止(140万人。治安上の懸念が理由。これにより、上院15議席、下院7議席が空白に)、選挙運動の制限(コロナ防止のため集会は50人以下に等)等があり、軍部系列のUSDPは選挙の延期を主張していた。選挙直前にはミンアウンフライン最高司令官は「選挙管理委員会は選挙の準備で容認できない過ちを犯している」「軍は国の守護者であり、注意深く見守っている」等とクーデターを匂わすような発言をしていた。
NLDの圧勝に終わった選挙後に、新議会の2月1日の招集を延期して、1月中に特別議会を開いてこれらの問題を討議すべき」と軍は強硬に要求したが、選挙管理委員会、NLDは選挙に一切不正は無かったとして軍の主張を否定した。

 今回のクーデターへの伏線はあった。2015-2020年のNLD政権一期目に於いて、政権側は軍部の力を削ぐべく幾つかの措置を実施していた。
一つは、1988年に軍部が設置したGeneral Administration Dept.(総務局、軍政の行政ネットワークとして地方行政、徴税、土地管理、住民登録等国民の支配・監視の為の組織)を軍が所管する内務省から大統領直轄の内閣府省に移管した。
二つ目は、ミャンマーはヒスイ、ルビーの世界的に有数の生産国だが、これら宝石取引を定める「宝石法」を改正し、取引の透明化を図った。こうした宝石取引はその生産を牛耳る企業が軍部と癒着して違法な輸出や取引の温床とも見られていたので、まさに軍部の最大の利権ビジネスへの介入を行った訳である。因みに天然資源取引の不正を監視する国際的NGOのGlobal Witnessの推計では、2014年のミャンマーのヒスイ生産額は310億ドル。
三つ目、これが決定的かも知れぬが、NLD政権が最も実現したい課題である憲法改正の動きが2020年に表面化した。例えば、外国人の配偶者や子供を持つ者は大統領に就けない条項(この条項によりスーチー氏は大統領になれない。このために、NLD政権が発足した2016年にスーチー氏は大統領の上に国家顧問なる役職を創設して就任した)の廃止とか、憲法改正に必要な議席数を「全ての議員数の75%以上」から「選挙で選出された議員の2/3以上」に変更(この条項により、総議員数の75%が自動的に配分されている軍が憲法改正の拒否権を持っていることから解放される)するとか、緊急事態を宣言出来るのは大統領のみにする(現行は大統領が国防治安評議会と協議して決定)とか、軍人議員の段階的削減とか、要は軍部が最も嫌がる改正を行おうとしたが、これは2020年3月に議会で否決された。
このような軍とNLD間の権力を巡る抗争が、2020年の選挙結果を受けて今後ますます深まるのは必至と軍は考えて来たのではないか。

 このような背景で起きたクーデターだが、民衆は2011年以来、日々肌で感じて来た民主化や経済改革の動きが止まり、軍政時代に逆戻りする事を最も恐れているだろう。そのため、市街でのデモや不服従運動(CDM)がなおも拡大している現状である。
欧米諸国は国軍幹部の資産凍結や入国禁止、国軍系企業向けの輸出禁止等の制裁措置を発表している。
中国はクーデターへの直接的批判や非難は避け続けていて、関係者の自制と正常化への対話を求める姿勢にとどまっているが、ミャンマー市民はこうした中国の対応に不満を募らせていて、中国系企業の工場への放火等の事件が起きている。
日本はクーデターを非難してはいるが、制裁措置は採っていない。これまで国軍とも一定のルートを維持して来ている事から事態収拾への何らかの役割を探っているし、期待もされているが、「接触のチャンネルはある」事と「影響力がある」事とは直結しないかも知れない。
なお、現地の日本大使館は在留邦人に日本への帰国を促している。
ミャンマーが属するASEANもインドネシアやシンガポールを中心に事態の打開を探っているが、ASEAN憲章にある「内政不干渉」の原則もあり、対応に苦慮しているのが実情だろう。
国連もミャンマー問題の特使がいるが、当面は特使の訪緬の実現させる等も関係諸国が努力すべきではないか。日本もこうした努力を傾けてはと思う。 

 いずれにしても、ミャンマー経済は2010年の民政移管後の制裁解除と外資誘致の取組が水泡に帰したと言え、現憲法と軍の統治が続く限り、外資はミャンマーへの取組に慎重にならざるを得ぬだろうから、経済の長期停滞を覚悟せねばならないかも知れない。

2021年3月24日 記