福井アドバイザーの 海外ビジネスコラム

第14回 深刻な政治的岐路に立つタイ

(公財)富山県新世紀産業機構 アジア経済交流センター
海外ビジネスアドバイザー 福井 孝敏

 東南アジアでインドネシアに次ぐ第二位の経済規模を持ち、日本の対アジアの直接投資額で中国に次ぐ第二位のタイが現在大きな政治的岐路に立っている。「政治的岐路」と言う背景は、これまでの政治的反抗運動がその時点での政権への反抗と言う形をとってきたものが、今回の反抗は現政権への反抗に止まらず、タイでは従来「絶対不可侵」の存在であった王室そのものへの異議申し立てが公然と要求される事態になっているからである。
 タイでは近年何度も大きな「反政府」デモが繰り返されて来た。2008年にはタクシン元首相系の政権への反対でバンコク市内のスワナプーム国際空港がデモ隊に占拠され、観光客ら10万人が出国不能となったり、12月に予定されていたASEAN関連の首脳会議等が延期となった。結局、この時の政権は瓦解し、反タクシン系の政権が誕生した。
 その政権は2010年に今度はタクシン系デモ隊によるバンコク市内中心部の1か月半に及ぶ占拠に見舞われた。
 2011年の総選挙で誕生したタクシン系政権は2014年に反タクシン系デモ隊によるバンコク中心部の占拠と同年5月の軍部によるクーデターで瓦解した。
クーデターにより暫定首相に就任したプラユット氏(元陸軍司令官)は、その後2019年3月の総選挙まで居座り、選挙を経て7月に発足した親軍部政権でも同氏は首相に就任し、現在に至っている。
 以上のように近年のタイの政治的混乱は国内を二分した親タクシンと反タクシンの間での主導権争いが真因であった。(因みに、現政権は反タクシン)

 現時点での騒乱は9月以降次第に規模を大きくして来たが、最初の契機は本年2月の裁判所による野党第二党(新未来党)の解党命令であった。同党は自動車業界の大企業の御曹司が設立した新しい政党で、昨年の総選挙で3番目に大きな議席を獲得した。主張は一貫して親軍政権への反対や憲法改正等で、特に学生等の若年層による支持で大きな議席を得たが、党首による政治資金の支出が違法だとしていきなりの解党処分が出された。これは明らかに現政権の政治的意思によるものであり、若者の大きな反感に火をつけた。(公平に見ても、タイの司法は政治的には明らかに反タクシン色の強い判決を2008年以降、出し続けている。)
その後、若者達は首相退陣やプラユット政権の権力維持に有利な制度を規定する憲法改正等を掲げ、反政府の集会を開いていた。国会も与党内にもある憲法改正の論議を行うべく動いていたが、9月24日に予定していた改憲手続きの進め方を決める提案の採決を軍に近い最大与党(国民国家の力党)が突然採決を通常国会が始まる11月まで延期する事を決めた事が若者たちの怒りに火を注いだ。
若者たちは1973年の「血の日曜日」事件(反政府運動で77名の死者を出した)の日である10月14日に大規模な集会を開き、そのまま首相府前まで行進を続けそこに居座ろうとした。翌15日未明に政府はバンコク市内に非常事態宣言を発令してデモの指導者を逮捕した。デモ隊はこれを無視して都心に場所を移して集会を強行した。警察はこの日は抑制的に対応したが、次の16日も集会を呼びかけたのに対しては強硬姿勢に転じ、催涙ガスを浴びせて強制排除した。デモ隊はSNSを駆使して市内各地でゲリラ的な集会開催に変更して警察といたちごっことなった。

 このような反政府のデモや集会はこれまでにタイでは前述のように何度も繰り返されて来ているが、今回がこれまでとは大きく異なる点は王室批判が公然と語られている事である。
3月頃に「なぜ私たちに国王が必要なのか」等がツイッター上に表れ始め、8月初めに人権派弁護士が言及したのを皮切りに王室改革論が噴出し始めた。
それは王室予算の削減(21年度予算が18年度の2倍以上になっている)、王族を中傷・侮辱した場合に適用される不敬罪(最大15年)の廃止等の要求となって表れている。
2016年に即位した現ワチラロンコン国王は即位後、国民投票を経た憲法草案の修正を要求し権限を強化したり、既に4回の結婚をしている上に100年ぶりの側室復活とか王族の特権的な行動等、国民の敬愛を集めた前プミポン国王の清潔なイメージの崩壊がコロナ禍での国民の暮らしや経済が危機的状況にある中、国家元首の在り方を巡る国民感情の悪化に火をつけた。
これは公然の秘密であるが、国王は1年の殆どをドイツの別荘で過ごしていて(皇太子時代から)、ドイツ政府からは「ドイツ国内からタイの政治が為されるべきではない」との批判が公式にタイ政府に対して今月7日に出されている。

 もう一つ、これまでの抗争と大きく異なる点は対立の構図である。これまでは前述のようにタクシン派と反タクシン派の間の抗争であったが、今回は党派間の争いではなく、運動の主役が大学生や中高生等の若者達となっている事である。彼らが掲げる王室改革の要求は中高年齢層には素直に受け入れる人が多くなく、いわば「世代間対立」となっている。
経済成長を実感できた既存の社会の仕組みをよしとする旧世代と、コロナ禍で経済が低迷し、そこに明るい未来を描き切れない新世代との対立とも言って良い。
 ここが今回の抗争の終着点が見出しにくい点である。これまでは抗争が過激化した段階で国王による仲介や、或いは軍部によるクーデターで事態の収束が図られたが、今回はその王室や実質的に政権を牛耳る軍部が批判の矛先となっていて事態の収束を図る素地が無い。
政府は一旦延期した改憲の進め方を議論するための国会を通常国会が始まる前の10月26、27日に設定して反対派の懐柔を図りたい考えだが、そこで反対派が納得する改憲案を打ち出せるとは思えない。一部には再び軍部によるクーデターを期待する向きもあるようだが、それが事態の根本的な解決をもたらすとも思えない。
今回のタイの抗争を見ると昨年来の香港に於ける抗争と共通点があるようにも思える。両方とも反対派のなかに明確なリーダーが存在する訳でない点だ。
香港で臨機応変にデモを組織する合言葉だった「水になれ」は今回、タイでも登場しており、タイは香港のデモを相当意識している。インターネットを介して広がり、明確なリーダーもいないと言う抗議活動の新バージョンは政府側からすれば交渉相手がいないので交渉が難しい。水のようにしなやかで砕けない「全員がリーダー」と言うデモはどのように収束するのか全く見通せない。

2020年10月21日