福井アドバイザーの 海外ビジネスコラム

第29回 タイ経済を大きく飛躍させる可能性を秘めたSEC構想

(公財)富山県新世紀産業機構 アジア経済交流センター
海外ビジネスアドバイザー 福井 孝敏

 世界的に猛威を振るう新型コロナウィルス感染症デルタ株は東南アジア諸国も例外ではなく、同地域では日本企業が最も多く進出しているタイも連日1-2万人の感染者が出、死亡者も200-300人となっている。6月以降の感染者急増の背景はワクチン不足にあり、9/7現在、2回の接種を終えた人は15%程度である(日本は約50%)。
 このような状況はタイのGDPの約20%を占める観光業に最も大きなインパクトを与えている。年間4,000万人の観光客が訪れるタイでは本年1-7月の観光客は合計で58,000人余にとどまっていて、年間1,000万人が訪れる中国からのvisitorが激減している。7月からはワクチン接種完了者限定で最大の観光地であるプーケット島やサムイ島に受け入れを始め、約15か月ぶりに1万人を超える観光客を迎えたが、最近の感染者急増で減少している。
 GDPに占める輸出の割合が70%と輸出依存度が高いタイでは本年に入ってから農産品、食品輸出等が伸長して経済を支えている。経済回復が早い米国や中国向けの伸びが大きくなっている。
しかし、全体として2021年の経済成長率は消費の伸びが増えず、0.7-1.2%と時間が経つにつれて下方修正されていて、政変のあったミヤンマーを除き、東南アジア地域では最低となっている。

タイSECの場所

 このような状況で、政府は「コロナ後」を見据えた経済成長をにらんだ新たな中長期の施策も打ち出し始めている。その一つが「SEC(南部経済回廊)」である。
現在、タイの経済の中心地はバンコク周辺及びその南東部でここが製造業の巨大集積地となっている。その集積をより高度に、また頭脳集積型に変革しようと「EEC(東部経済回廊)」を設定して各種の投資優遇措置を次々に発表している。 タイ政府としては、地域の偏りのない国土の均衡ある発展を目指す観点から2018年に上記の「SEC」を設定した。対象の地域は下記の図の通りで、南部のチュンポーン県、ラノーン県、スラタニ県及びナコン・シ・タマラート県の4県となる。

 ご覧頂くとおわかりのように、ラノーン県のみがアンダマン海に臨んでいて、即ち、タイからインド、中東、欧州、アフリカ向け等西方に輸出を行うとすれば、東部のタイ湾に面する主要な港湾からの輸出ではマラッカ海峡経由となるがラノーン港からはマラッカ海峡を経由する事なく、直接に出荷出来、航海距離の短縮が可能となる。
 タイは当初はこの西方向け輸出の場合、ミヤンマー領ダウェー港を利用する予定であった。そのため、タイ政府はタイ領からダウェーまでの道路整備を請け負う事とし、またダウェー地区ではタイの企業が大規模な工業団地を整備する事になっていた。これには日本政府も加わって、日・タイ・ミヤンマー3国の共同開発プロジェクトになる予定であった。
 しかし、ミヤンマー政府(スーチーさんの政府)はダウェー開発で裨益するのはタイでミヤンマーにとっては利益が少ないと反発し、本件は暗礁に乗り上げた。タイ政府は西方への窓口を失う事になり、その結果、タイ領内のラノーン港を西方への窓口として整備する事とした。
これで生まれたのが「SEC」である。ラノーン港の整備だけでは地域開発にはならないので周辺の県の開発、特にタイ湾側のチュンポーン港の開発及びチュンポーンとラノーンを結ぶ鉄道及び道路の整備を行う事としている。こうすれば、現工業地帯のEEC地区で製造された製品を道路や鉄道でラノーンまで輸送し、西方へ輸出が適う事になる。
驚くべきは、EEC地区からタイ湾をまたぐ橋梁でSECとの間をつなぐ構想まである。

 さて、ここまでラノーン港から西方への「輸出」の事のみ記載したが、考えれば西方からの物資をラノーン港で陸揚げ(「輸入」)して東方(バンコクやEEC地区方向)に輸送すれば同じようにマラッカ海峡を経由せずに済む事が分かる。このように「SEC」の整備により、マラッカ海峡を経由せずにさまざまな物資を「輸出入」出来る。ある意味、物資の輸送上、航海距離の短縮が実現する。これをタイ政府は「Land Bridge」と呼んでいる。
 また、「Land Bridge」に石油のパイプラインも併設する考え方もある。中東原油等をタイに輸入する場合、現在はマラッカ海峡を経由してタイに輸送しているが、この「Land Bridge」に石油パイプラインを併設すれば大型原油輸送タンカーはマラッカ海峡を通航せず、ラノーン港で陸揚げする事が可能となる。陸揚げされた原油はパイプラインを通じてタイ湾側に輸送され、そこから小型タンカーでEEC地区に集中している石油精製所に輸送する事になる。
マラッカ海峡は最も幅の狭いシンガポール海峡は3kmほどしかなく、年々増える通航船舶が衝突等の海難事故の可能性もあるし、一時より下火になったとは言え、海賊による船舶襲撃事件も懸念されている事を考えればこの海峡の代替ルートの意味は極めて大きいと言える。 

 筆者が90年代後半にタイ・バンコクに駐在していた際に深く関わったプロジェクトがまさにこのタイの「Land Bridge」である。但し、その当時の「Land Bridge」は今の「SEC」の地点ではなく、更に南に建設する計画で、且つ建設するのは石油パイプラインのみであった。当時もマラッカ海峡の安全性には懸念が持たれていて、しかも海賊の襲撃事件が現在よりも頻発していた事やタイの石油需要が年々10%も増えていた事で国内の石油精製所の増設が叫ばれていた事から、パイプラインの東側、即ちタイ湾側に新たな石油精製所及び石油化学コンプレックスを建設すると言うのが全体像であった。筆者の所属する企業ではタイの石油公社や日本のエンジニアリング企業と協力してF/Sを実施し、石油精製所についてはfeasible(実施可能)との結論を得た一方で、石油パイプラインについてはマラッカ海峡ルートとの比較で明確な優位性を確認出来なかった。そこで石油精製所の建設に向かって更に詳細な検証に進むところでタイを起点とする「アジア通貨危機」が勃発し、プロジェクトは頓挫した。その後もタクシン政権やその妹のインラック政権時にプロジェクトの復活が計画されたが、いずれの政権も軍部によるクーデターで挫折し、今日まで日の目を見ていない。

 そういう意味ではタイにとってこの「Land Bridge」プロジェクトは「悲願」でもある。マラッカ海峡代替ルートの実現と言う意味では古くは「SEC」の地点に半島の東西を貫く「運河」を建設するとの構想があり、現時点でも中国の「一帯一路」との兼ね合いでこれを実現しようとする動きがタイ、中国の双方にある。 しかし、「運河」は建設費用が膨大になる事、アンダマン海とタイ湾の水位が異なる事から海洋生態に大きな影響が及ぶ事や「運河」の建設によりタイの国土が物理的に分断されてしまう事(プミポン前国王はこの点で反対していたと言われている)等からその実現の可能性は高くない。

 コロナ禍に苦しむタイ政府はコロナ後を見据えて経済の浮揚策を検討しており、その中でこの「Land Bridge」も欧州のコンサルタント会社を起用して現在検証が進んでいる。
 ここにマラッカ海峡代替の輸送ルートが開通すれば東西の物資輸送には極めて大きな影響を与える事は必至で、これにより「ヒト、モノ、カネ」が集積する事になり、それが経済に与える正のインパクトは巨大なものになろう。
引き続き、注目を要する事は間違いない。

2021年 9月10日 記